これは私自身、診断されたことはないですが、「うつ状態」の時に合併して疾患を負うことはあります。パニック障害の症状とては文字通り、心拍数が170まで上昇して急に落ち着かない状態の緊迫感に陥り、学校の帰り道めまいもして三半規管に異常が出てると自分自身で自分を心配していました。謎のめまいで具合が悪くなり大変苦労しました。自ら収入を得るという周囲に劣等感を感じたのは原因だと感じますが、他に自分の置かれた状態が分からなくなり、ここはどこで私は何をしているのだろうと急に無に帰る不安を感じる事を繰り返し、引きこもり的に出れない心境が続いていました。映画「パニックルーム」は障害の人ではないですが、心境的に似た状況を描いたつくりになっています。発作の原因は、周囲がざわめき始めたり、あざ笑われたりと孤独を感じた時に、急に胸が締め付けつけられる状態になり、冷静に冷静にと念じて深呼吸をして落ち着きを取り戻そうとすれば徐々に心拍数が元に戻りパニック症状は一時的に収まりますが、時折、発作が起きることに恐怖を覚える日々が続きます。常に冷静さを忘れず冷静沈着に何が起こっても瞬時に対応出来うる能力、それが前のテーマの「キングスマンを目指せ」のように決意、準備、そして覚悟、これがパニック障害を治すために必要不可欠な意志となっています。英語なので日本語で聞くと違和感があるかもしれません。英語のままで聞けば臨場感が出て心理をつかみやすくなっています。具体的に、「パニック障害」というものを述べると「パニック発作」、「予期不安」、「広場恐怖」の3つの症状があります。得てして場所を問わず起きることなので、かなり疲れます。仕事もあると毎日必要以上に体力を消耗するうえに、新入社員だと上司に叱られるたびに、大学まで行ったプライドや意地に自信をなくしてしまいますが、私の場合は、逆に社会人になったらそういうこともあるだろうなと考えて社会に出ていたので、学生時代よりもむしろ楽に感じました。お金を貰って働きが足りないのだからとロマンに浸り、気付けば結構な大金もキチンと振り込まれており、好きに使って新卒仲間と使って遊びました。なので私の場合は、上手く上司から受けるストレスは仲間とお金を使って発散して、最後は「軽いうつ病」も「パニック障害」も吹き飛ばすだけの意地を張って生き抜いた結果、自然とぱぁっと気持ちが明るくなってきて、気付けば治っていた。という流れで、よかったです。治せて本当に良かった。丁度、最初の会社に内定通知の連絡を貰ったのが10月だったので、1年後の10月のOJTに入っていたころの話です。社会に出て1年、給与を受け取り自立したと自身を持てたころの話です。これは、高校の時に両親が中卒で、長男長女の夫婦という家庭で育ち、一人息子、そんな中で、隣の町にある高校で市外でもあり上位のみが推薦で大学まで進学している高校という環境下で、一クラス女20名位、男9名位の教室で入学当初からトイレ前のE組の周囲になじまず、3年間同じクラスでしたが、ずっとなじまずにいました。周囲の男は早々にアルバイトを初め彼女を作り、騒ぎはて、映画「暗殺教師」で登場するくらい昔の旧校もあったとされる古く130年程の歴史がある高校でしたが、クラス内も似たくらい賑わっていました。この映画は私の高校3年間をリメイクしてねぎらってくれているようにも感じるものでした。十勝山脈も連ねる迫力パノラマの広がるロケーションでしたので、空気はいいですが、進学できるかどうかわからない不安と毎日戦う日々でした。部活は入部していたので、副部長として腕を振るっていましたが、筋力トレーニングの過酷さは半端ないものでした。そのかいあって試合では、1試合は毎回勝てる程で、2試合までは1何度か突破出来たくらいです。4試合目まで行くと決勝なので、地区大会としてはベスト16位の成績でした。とにかく、部活で発散していましたが、ストレスの多い心理状態でいましたが、幸い、部活のメンバーは学年トップの後輩や高校内では成績優秀な者たちばかりで、上位5番以内がいたので助かっていました。おかげで大学も推薦で行けたのが幸いです。しかし、社会に出るまで、私は大学でもアルバイト1つせず、母の実家の祖母の日高昆布漁の小屋仕事も含めた仕事を大学の夏休みに1度泊まり込みで行ったことがあります。本州からの大学の女子バイトも来ているところでしたので、緊張感はありましたが、私が行ったときはいなかったです。ホームシックで大変でしたが、無事に1カ月終えたのを覚えています。何しろ昆布が取れない日は仕事がなくて2階の部屋で海を眺めて端末のゲームや漫画を読み荒らす日々もありました。ただし、時折小屋に呼ばれて、昆布の整理の手伝いもしながら、もくもくとただひたすら作業をしていました。日高昆布の香りはいいものでしたが、根気のいる仕事です。私は日高昆布の猟師しか知らないですが、天気がいいとサイレンが鳴り、バラシと呼ばれる石に取れたての昆布を船から港でおろし、8tトラックで浜に持ってきて、デメンサンと呼ばれる雇われを使い5~6人のみんなでいっせいに干していきました。当時は、まだ祖母も健在で昼ご飯も用意してくれて、朗らかに笑う祖母は88歳のころで元気な人でした。
パニック障害 第一部
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