「一流の人物というのはユーモアのセンスを必ずもっている」という言葉について、確かに豊かさを感じさせてくれる人物というのは、素晴らしいと感じます。「笑い」は、実にこころよいものです。笑いのある中で「軽いうつ」になる人はまずいないでしょう。大阪では、笑いがないと街が都会でもあるし、怖いところでもあるので気分が参るかもしれません。知らないおじさん、おばさんが陽気に話しかけてくれたのを覚えています。中にはツタヤで芸人さんの笑いのDVDを借りていく人も、ちらほら目にして「笑い」に興味を持っている人がいる事を分かりました。「笑い」には一つの原則があります。「優越感」だそうです。つまり、「人間は自分が優越感を感じたとき笑う」とうことです。「笑い」が、こころよいのは、緊張から解放されるからでしょう。そして、私たちの心に余裕を与えてくれるからだと考えます。逆にいえば、緊張した心理状態とか余裕のない人には「笑い」はないということです。
広い目線で物事を考えて、人々の意志を尊重しつつ親切心を忘れないで接する。結局、人と言うものは身勝手なもので自己中心的に考えるように陥りやすいものです。日頃から気を付けていれば大丈夫かもしれませんが、体調の面や協調性、人間は一人では生きていないということを踏まえるといいです。人の恨みは怖いものです。恨まれたくないと考えると必然的に他人に善の行いで真っ当に生きていた方が楽だと分かります。しかし、人間誰でも失敗の一つや二つはあります。関係性がこじれる反応や態度を、もし誤って取ってしまった場合どうしますか。自身に非がある場合は謝る。自身に非が無くても誤った方が良いと考えられた場合はすぐにでも謝る。上司のご機嫌、調子を上げるように頑張ることは、自身の居場所を確保するためです。知らない人であれば、知らないふりをする。間を開ける。後で考える。反省する。多々あると考えられます。自身のメリットも考えて行動しなければ他人は評価してくれません。お互いに善の気持ちでいたいからです。和解とは、相手の気持ちも組めなければならないものです。こころが曇ってしまわないためにです。積もり積もれば、気分はやがて憂鬱になり「軽いうつ」になってしまうことだってあります。すでにうつの人は、悪化させないためにも控えめに、避けておいた方が無難でしょう。幸運を考えるならば、「他人の利益」をも考えて生きていく事は栄えある人生へとつなげていくものです。大抵の「軽いうつ」などで悩み過ぎてしまった人と言うのは、良い人過ぎたからが原因だと考えられるので、真実を知っている人とも言えます。基本は人間は人に疲れていなければご機嫌な人です。価値観や外見が違い仕事感が違ってくると一見、合わない人には愛想が悪い人もいます。器とは、そういった苦労人を組めるかどうかであって、社会人として誰とでも仲良く振舞える状態を作り上げることが必要に応じてあるからです。本当に自身と合う人は、人生の友と考えて共通点的に大事に考えておくといいです。
賞賛されて悪い気分になる人はいません。ほめられると人は嬉しさに満ちてきます。賞賛には2つあり、外見的な部分としぐさなどの雰囲気。男性に関しては仕事力です。賞賛することで、より一層仕事に励んでくれたり、職場の感じを良くしてくれたりします。管理職の人は覚えておくと良い話です。本人が気づいていない点をほめるのが、ポイントです。
挨拶についてです。「挨拶」の意味は、自分の方から心を開いて相手に近づくです。私自身は子供の頃は、気になった時は、挨拶していたように感じます。徐々に決まったときしか挨拶はしなくなりました。知らない人にも挨拶すると、変な空気が流れるときがあったので、相手を選んで挨拶するといい結果があります。
礼儀を考えると、紳士な対応と態度が必要で、常日頃から信頼がある人間でなくてはならないと考えます。実際に姿勢を突然作るとなると難しいし、嫌な感じがします。気持ちに笑顔を作り礼。嫌々ながら礼。嫌々ながらだと具合が悪くなる気がします。成績いい人は、人間的にも高等に高く、良い空気を吸っているので、低く淀んだ低い成績者の中に入りたくないと感じてしまうものです。若い年齢で努力しているポジションを死守するために虚勢をはっているものです。本当はみんなからも生徒会役員をしたり、運動部で活躍していたり、学際で頑張っていたりと全般に努力して、学年中から注目を集め、尊敬されるような人が成績優秀者だと文句ないです。本来優秀にならなくては、いけない人が優秀でないと理不尽な状態が発生する事があります。誰でも素直に、普通に見習える人物が上に立つべきであり、評価されるのが正常と言えます。逆の場合は、目には目を歯には歯をという諺の意味の通り、宿敵がいることになるのでしょうか。礼儀というものは、基本は武道の中で学ぶ事が正常に正しい場で体得できるものであると考えられますが、社会人教育の場でも学べるものですし、家の育ち方でも親の躾として学び受けるものでもあります。