子供のころから母に連れられて、この浜によく行っていた私はなじみがあり、近隣の人は私を知っているようでした。心境が変わり、病んでいた当時の私の様子をどう見ていたか分かりませんが、子供ころとは違い無鉄砲さがなくなっていたように感じます。作業は何度か昆布は、石にくっつかないように、引っ張る作業があり、天気がいいと、浜一面に日高昆布が並べてあり、からからに乾くとそれを紐でまとめて縛り、集めて、専用の手動カッターで1m前後位の決められた位置で昆布を切断していき、最後にまとめてトラックで小屋に運びます。港ではサケ釣りに8月頃には札幌くる人もいて、私も釣ってみたいと考えているだけで、磯のはまどこという魚やうに、つぶを取ってきて、祖母に料理してもらい食べた思い出があります。祖母の家には、大量のサケや、いくら、ウニが瓶詰めで豊富に海産物が冷凍されており、食材は豊富でした。畑1つと山1つもあり、本家の家柄で、ジャガイモや自家製のわさび、グスベリーなど様々なものを栽培して自給自足位で暮らせる家でした。伯父が一人独身でおり、祖父の跡を継いで猟師をして、船に乗っていました。夜は晩酌でお酒好きの伯父でした。アルバイトというものは学生時代では、この夏の短期間の身内の家でのアルバイトのみで社会に出ています。なので、高校時代にアルバイトをしているもの自立心はひしひしと伝わり、両親もほぼ中卒で働いていたので、自身も責任感で働かないで学生でいる状況は望んでいましたが、緊迫感に似た心境があり、キチンと働けるか心配な状態でいた事が原因で、学部卒で東京に行って働く事で、払拭して妙な心境(軽いうつ状態)はなくなりました。現場代理人でしたが、スーツなイメージの会社でしたので、作業着とはいえ大手の服だったので都会の中でも、そんな劣等感に駆られることはなかったと当時の私は感じていました。田舎と都会の関係の中交錯することと、親の働く姿は立派ですが、背の低めの私にとっては田舎の仕事は重労働で大変に感じてしまっていたのが、パニック障害の原因だったように感じます。背のある人にとっては平和でも背の低めの人にとって、それは過酷な労働に見えるという現実。子供のころは身長が伸びると信じていたのに、実際に高校生になっても、身長170cm未満というのは田舎の未来に厳しさを悟っていたのです。都会は能力主義なので、割と優秀だった私はあっていると感じています。その証拠に「軽い鬱」は治りました。  今気づくことは、他に症状として適応障害の症状も合併していたことを思い出します。1.「情緒的障害」、2.「行為の障害」の2つの症状がありますが、情緒的障害でいうと、泣きたい気分でもないのに、自分の意識とは無関係に下を向くだけで「抑うつ気分を伴い」、平然にいようとしてもなぜか自分の思う感情を無視して「不安を伴う」状態になっていました。行為の障害で言うと、常習遅刻や、極度に急に怒り始める衝動に駆られることが度々ありました。これらすべてが自分の意志とは関係なく反応する体や脳が支配されていく感じが、たまらなく嫌で、まるで洗脳されていくように感じていました。それを抜け出したくて必死で生き抜いたのが私の半生でもあります。脱サラとはつまり札幌なのでしょうか。人生を明るい未来を目指して生きる事を考えると地方都市からは札幌を避けて関東なり関西なり、日本中に自らを発信していく姿勢を見せることが必要だと考えられます。因みに適応障害は、コミュニケーションや、自己表現が苦手な方、また理想の高い方に多いとされています。こういう人は一度こらえて、聞いて、汲み取って、時間が解決した時に、気分転換をしてから心機一転やり直す気持ち、姿勢を出すことが大事になってきます。こういった時に、過度な思い込みに支配され、さらにストレスに対して抵抗が弱いと自己防衛的になり社会性が欠如します。解決方法は常に自己を肯定的に考える取り組みが重要だと自負できます。冷静な判断と広い考えに加えて無理な人間関係を嫌い、もっと自由意識で入れるようにして楽に考える関係をもつようにすることは私自身も実践して気を付けている時もあります。最近気になったことですが、札幌市には精神科はいったい何個存在するのでしょう。検索をかけると数えきれない程の精神病院が存在しています。これは札幌市の仕事状況の悪さが原因で市民が苦しみ病んでいる人が増えたからです。景気も悪く地方政令都市である街、「札幌市」は私も29歳のUターン後、半年かけてやっと見つけて地方から再度引っ越して札幌市に住んだ後に、たった8日でクビを宣言され、人生初の解雇に途方にくれました。とにかく就職活動を再開しましたが、この繰り返しの連続、ほとんどの行った会社は短期間の試用期間での終了や後遺症の残る骨折のケガなど災難が多くありました。車をぶつけられているにも関わらず自分が自腹で弁償する判決になり他所の街の勝手は分けがわかりません。被害者なのに加害者扱い、負債額300万と会社社長には言われましたが、東京の信念の意地で請求書の8万4千613円の支払いで済ませした。かつての苦難を乗り越えた私だから、8年間も主に札幌市で挑戦し続けて、今もまた仕事を見つけて働いて生活していますが、厳しい社会状況なのには変わりはないでしょう。現在は新型コロナウイルスが蔓延し、世界中で多くの人々が犠牲になり、早く特効薬が出来て安心できるくらしが来ればいいとは願いますが、こんな時こそ出来ることもあると考えているので、私はブログを書きます。